あの人のラーメン物語

食生活ジャーナリスト 岸朝子

第2回 食生活ジャーナリスト 岸朝子

「食生活ジャーナリスト」

「食生活ジャーナリスト」。
数多くの著書を改めて拝読すると、略歴にはそう書いてある。なんとまぁこの方にふさわしい呼び方であろうかと感じ入る。私たちが岸朝子という存在を知ったのはフジTV系「料理の鉄人」に審査員として出演、的確な批評と「おいしゅうございます」の台詞が評判になったからだが、それより以前、料理記者歴50余年の長い積み重ねがある。

「ラーメン屋というのが町に出現したのはね、昭和30年頃よ。私が主婦の友社に入社した年。外地から引き揚げてきた方々が向こうで食べた味が忘れられなくて始めたの。店の外まであふれるくらいのお客で一杯。会社の近くに開店したから誘い合って出かけたものだわ。でもね、本当の初体験は高等師範付属小学校の頃。忘れもしない支那そばって呼んでたの。私が入学したのは昭和5年だから、昭和10年くらいよ。受験のための補習の時に母親たちがオヤツを用意するわけ。菓子パンやケーキが主だったけど、その日は支那そばだった。生まれて初めての味。そりゃあ、おいしゅうございましたわよ」

微細な食への記憶、スラスラと出てくる数字の確かさとリズム感豊かな語り。御歳85で単身全国を取材、講演と飛び歩く行動力には驚くばかりだ。

「夜鳴きそばっていうのも憧れでね。屋台を引いて夜現れる。大人の男たちは食べられるけど、子供は食べさせて貰えない。子供が食べてもいいのはお汁粉、あんみつ、稲荷寿司なんかを家の近くのお店が出前してくれるのだけ。支那そばは夢の味だったわね。その後戦争中は勿論、女学生時代、娘時代も食べたことなかった。で、ラーメンという言葉が登場したのは戦後の札幌。元機関士だった人が三平という店を始めたの。寒いから冷めないように豚のラードでカバーして。それがバターに移っていくんだけど、大繁盛していたその店に毎日通ってきて熱心に観察している人がいた。それがかの有名な花森安治。『暮らしの手帳』で一世を風靡した伝説の男。時を置かず『サッポロラーメン!』と誌面に踊ったというわけよ。なにしろ『欲しがりません勝つまでは』なんて歴史に残る名キャチフレーズを作った人だからネーミングは上手。一挙にラーメンは市民権を得たわけです」

かつて『暮らしの手帳』が我が国の出版文化をリードする影響力を持っていたのは誰しもが認めるところだが、ラーメン史にも及んでいたとは。

「その後昭和30年代の開店ブームがあり、なによりも大きい出来事は昭和33年のインスタントラーメン登場ですね、特筆すべきは。安藤百福さんが考えて考えて、ドラマにもなったから皆さんご存知のはずよ。大阪の町でお客さんが並んで待ってるのを見て発明した。おかげで今私たちがどれだけ助かってるかよねぇ」

次から次に話が繰り出して止まりません。

「この話、何に載せるの? 一風堂のウェブ? 私ね、上海で河原社長にお会いして、お店にも伺って感動したわ。開拓魂のある方です。ニューヨークにも出したってエライわ。エールを贈りますって伝えておいてねっ」

記事:滝 悦子

Profile
1923年生まれ、32歳の時に主婦の友社入社。料理記者としてスタートを切る。『栄養と料理』編集長を経て、79年エディターズを設立。料理、栄養に関する雑誌・書籍を数多く手がける。現在も執筆、テレビ出演、講演、各種審議会の委員など精力的に活動している。著書『岸朝子のおいしい長寿のお取り寄せ』『東京五つ星の手みやげ』『老いは楽しゅうございます』など多数。