あの人のラーメン物語

歌手 米良美一さん

第12回 歌手 米良美一さん

とんこつラーメンはあったかい親子の絆だった。

今から14年前に公開された宮崎駿監督の「もののけ姫」で、主人公の歌を歌った。
あの時は日本中が驚いたものだ。この声は?誰が歌っているのか?男なのか?女なのか?それほど牛着に謎めいた、そして透き通った声だった。
その人、米良美一さんは実は、先天性骨形成不全症という、幼少期に骨折を五十回以上繰り返した難病と闘ってきた経緯があるという。

最近はテレビのバラエティーショウで軽妙な話芸も披露して注目され、人気急上昇の異能の歌手に「食」への思いを訊いた。まずは、ラーメンについて。
「とんこつ、です。」
とんこつしかラーメンじゃないと言ってもいいくらい。シナそば、醤油味系は駄目。
ちぢれ麺も太麺も受け付けず、細麺でバリ固より固い粉落とし、もう針金みたいなのが好みです。スープに背アブラなんぞは入れてはいけないし、昔から続いている古いラーメン屋のひなびた変哲のないとんこつに、ゴアをたっぷりかけてススルのが僕にとってのラーメンです。凝りまくって深みにハマらず、洗練されすぎない味の。

―――訊いたとたん瞬間的に一気にラーメンへの思いを述べる。相当の凝り性ですね。

「もともと麺が好きなんですよ。
スパゲッティ、うどん、ラーメン。名字は米が良くメラなのに、細くて長い麺びいき。縁も丸くつながりがあるような気がするんです。
特にラーメンには特別な思いが籠っている。
僕が生まれたのは宮崎県の西都市、山あいの集落でそれこそ日本むかし話に出てくるような村だから一軒のラーメン屋もなかったけど、週一回くらい軽トラックの行商さんがやって来て、チャルメラのあのもの哀しくも懐かしい音が聴こえてくるわけです。
そうすると父親が、『ラーメン喰おかい?』
と、おもむろに呟くから、そしたら僕は母にオンブされて車のところまで行く。
もう晩飯も晩酌もとっくに済んだ夜遅くなのに、家まで運んできたラーメンを親子三人で囲んでいる時のあの嬉しさといったら。
30年程前の光景が今でもありありと浮んでくる。それはきっと僕が難病で、6歳から18歳までほとんど病院や養護学校の寄宿舎で過ごしてきて家に居たのは小学校4年から中一の短い間だけだから・・・・だから親子で暮らした貴重な時の思い出として残っているんです。
ほかに娯楽のない村での格別の楽しみであり、とんこつラーメンはあったかい親子の絆だった、と。
他の皆さんのラーメン観とは違うかもしれん。
時々思いますよ『あのラーメン屋さんまぁだ生きとるやろうか?』と。もう一軒というかもう一台、車で売りに来とった八百屋さんがおらして、その人とはこないだ会うたけどねぇ。

山の生きものたちに感謝を捧げて。

―――コンサートで外国の曲を歌う前には、必ずその国の料理を食べてみる。風土や風味を味わうために、というくらい自他共に認めるグルメであるとか。

「好奇心が強いからどんな食べ物にも挑戦するし、あらゆる料理を食べてみたい『食いしん坊』であり料理の腕もなかなかのものです。音楽家には味覚の発達した人が多い。
歴史に名を残す大音楽家たちも美食が高じて病に倒れたという記録があるし、食べて微妙な味を楽しむことと音づくりはとても似ているような気がする。どちらも言葉では説明しきれない感覚を必要とするから。
僕の場合はまたさらに違うかもしれない。山奥の生活の中で培われた味覚だから、都会育ちの人とは根底が違う。
小さい頃に食べた味は、味覚ばかりでなく、他の感覚や体質や感性まで作りあげるというから、では僕たち日本人の身体や心は極端にいえば味噌と醤油がベースなんですかね。
子どもの頃の食生活が重要な役割を果たすというなら、僕は恵まれていたと思う。
隣に住んでいたばあちゃんと過ごすことが多かったから。春になると山菜取りに行き、ワラビの味噌汁。煎った落花生と豆腐で野菜を和える白和え、玉ねぎと人参のかき揚げなど、手際良くこしらえてくれた。
遠くに見える山々と田んぼばかりの風景のなかで慣れ親しんだ味が、涙が出るほど恋しくて、僕は今は自分で作って食べています。
父は父で山仕事の傍ら、イノシシやシカを撃つことが多く、僕に小さい頃から父や仲間たちが猟銃で仕留めた肉が好物だった。
都会の人はイノシシの肉をすきやきと同じように上品な鍋にして食べるけど。そんなぼたん鍋は僕にいわせればあまり上手な食べ方ではない。山の食べ方はもっと野性的で、ぶ厚く切って、塩を振って炭火で焼いて噛みごたえを楽しむんです。野趣にあふれ、実にうまい。
後に「もののけ姫」の主題歌を歌ってみないかとお誘いを受けて、スタジオ・ジブリの一室で宣伝用のビデオを観たとき、その舞台が生まれ育った宮崎の山そのもののように思って感動しました。
躍動するイノシシを見て「うまそっ!」感じてしまったのも事実で、それほど狩りは身近で日常的であり、父たちも、生きものの大切な命を自然の恵みとしていただくことの意味をよく知っていた。イノシシを解体したときは、最初にかならず山の神様に盃と肉の一部を捧げたし、手柄を立てた猟犬には一番おいしい肉を食べさせた。そして肉だけでなく皮も、内臓や骨まわりの肉も味噌でじっくり炊いて、しゃぶり尽くすように食べきった。
きっと成仏してくれたに違いない山の生きものたちが僕を世に導いてくれたと有難く感謝しています。

人生はハンディキャップと共に与えられた。

―――歌は小さい頃から歌っていたそうで。

「4,5歳の頃から大人たちの宴会で披露するようになっていちばん受けたのは「岸壁の母。」誉められるのが快感だし、そのたびに母が幸せそうな顔をするのも嬉しかった。
弱い身体への奇異な視線が、歌うことによって羨望の目に変わるのが誇らしくもあり。
それにしても長い道のりでした。
難病や障害もって生まれたことは何ら恥ずべきことではないのだけれど、成長する過程で味わった苦い体験から、子ども時代のことは誰にも話さずにおこうと決めていました。
音楽大学を卒業して歌手として高い評価をいただくようになってからも気持ちはかわらず・・・・・。
身体の障害に限らず何であれハンディキャップをかかえていると、それを克服した事実だけで「大変だったね」といわれる社会の現実があり、それを武器として生きていくのもひとつのやり方かもしれないが、僕はしたくなかった。
ただでさえ周囲の視線や評価が気になるタイプだから、つらい生い立ちを隠しておきたかった・・・・んですね。宿命を恨んだこともしょっちゅうで。
でも、最近になって考えが変わりました。
僕の人生は生まれる前から与えられていた。
声も音楽的な能力もハンディキャップと共に与えられたものだと考えられるようになった。
これまでの人生の何が欠けても現在の僕は存在しないとしたら、すべてに感謝を捧げるしかないではないかと。
四十歳を過ぎて、やっと自然に、流れのままにいきていていいんだと思えるようになったんです。

記事:滝 悦子