ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.39 にゃがにゃが亭

おおよそ10年前、東京・赤羽に1軒のラーメン屋がオープンした。『にゃがにゃが亭』、1度聞いたら忘れないその名前は、店主・金根亨さんが、若かりし頃から温めてきた名前だった。現在は、東京~千葉にラーメン屋と餃子工房が合わせて4軒。夕方から深夜まで、客足の途絶えることがない人気店である。

子曰く「吾十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る」、論語の一節である。金根亨さん、55歳。彼の話を聞いていると、50代ど真ん中にして「天命を知る」日々を生きている気がした。

「いくつになろうと、生き方のどこかに『自分はボートピープルだから』という感覚が滲み付いているように思うんです」

金さんは言う。幼少期の記憶は、生まれ育った済州島から小船に乗って、母と2人で対馬に渡ったこと。そこで初めて風呂に入り、夢枕に聞いたカエルの鳴き声も忘れることができない。

3度目にしてようやく日本に渡り、先に東京で事業を起こした父のもと、家族3人暮らすようになったのは6歳から。父は本場の味と感覚を活かして焼肉屋を経営していた。そんな環境下で育った金さん、1度は「外のメシを食う」ため、魚市場に勤め始めた。

配属先は船橋中央魚類市場。そこで今で言う「行列のできる店」的に繁盛している居酒屋があった。店には『にゃがにゃが亭』という看板が。30数年前、すでに「大皿料理」で人々を喜ばすその店には、夕暮れどき、席取りのために並ぶ人が少なくなかった。自らも常連客であった金さん、その光景を見て

「いつか自分が店をするときは『にゃがにゃが亭』という名前にしよう」
と心に誓った。

彼は28歳から家業を手伝いながら、いくつかの店の経営を兼任するようになった。1980年代、俗に言う「バブル時代」の恩恵を受け、焼肉屋と麻雀屋を2 本柱に、割烹料理店、カラオケパブ、クラブなど幅広く展開した。どの店も繁盛していた。だから「儲からなくてもいいや」くらいの軽いノリで「ラーメンが好きだし、ラーメン屋をやってみようかな」と、ある日ラーメン屋の暖簾を掲げた。

「池袋近辺で毎日ラーメンを食べていたから、自分にもやれそうな錯覚を起こしたんです」

と金さん。ラーメンを甘く見ていた。見よう見真似でやってみるが、まともな味が出せない。は製麺業者から仕入れるものの、スープのつくり方がわからない。

頼る先は、その製麺屋だけ。知識も経験もない自分を、同郷のよしみで助けてくれているのだと感じ、心の中で手を合わせながら、を配達してもらうたびに、しつこく「スープのこと」を訊ねた。わからないまま『にゃがにゃが亭』の看板を掲げたから、味が落ち着くまで五里霧中の心境で励んだ。そうして、なんとか形になっていった。

天職に気づかせてくれた畏友との出会い

ラーメンが好き。ラーメンの仕事は楽しい」

その感覚は創業時から変わらない。バブルの終焉と共に、ラーメン以外の飲食店とカラオケパブなどを処分した。背水の陣、残るはラーメン屋のみ。江戸川区に一之江本店を開店し、創業店は人に譲った。

事業としてのラーメン屋展開が始まる。ここ10年ばかりで『にゃがにゃが亭』は、行徳店、飯田橋店と3軒に増え、餃子工房も開店。1歩1歩着実に事業を発展させている。しかし、なんだかしっくりこない。自分の「本気」がまだ見出せずにいた。

そこに現れたのが『支那そば ちばき屋』の千葉憲二さん。彼は昨年の4、5月頃から、金さんを導くひとすじの光となった。千葉さんのラーメンにかける心意気と研究熱心さに触発された。

各地に同行する機会が増え、彼を介してたくさんのラーメン職人との交流が始まった。一切の迷いを捨て、ラーメンに打ち込む覚悟ができたのもこの頃。のことも、スープのことも、改めて勉強である。経営のことや従業員教育も、ラーメン屋創業から10年目にして、ようやく方向性がつかめてきた。

他への未練など微塵もない。『ラーメン屋になってよかった。これからが、正念場だ』と、心の底から己の天命を感じる今日この頃である。



にゃがにゃが亭
住所:東京都江戸川区一之江2-5-4
TEL:03-3674-0051
定休日:なし
営業時間:17:00~翌3:00(土日祝は12:00~)

金 根亨さん

有限会社 夢工房
代表取締役
金 根亨さん
KIN KONKYO

1948年12月、韓国・済州島生まれ。6歳で日本に帰化し、以降は家族と共に東京暮らし。最初に就いた職は魚市場での仕事。その後、家業の焼肉屋を手伝いながら、麻雀屋、カラオケパブ、割烹などいくつかの店を経営。ラーメン屋を始めて、およそ10年になる。