ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.21 マルバラーメン

2000年冬、第5回目のTVチャンピオンラーメン職人選手権が開催された。そこで、見事『ラーメン職人チャンピオン』に選ばれたのが、マルバの小松征司さん。どこで修行するでもなくラーメン屋を始めて2年半。普通だったら出場することさえ希有なのに、優勝してしまったのである。

もしかすると、いちばん驚いたのは当の本人かもしれない。何故って「フランス料理よりもイタリア料理よりもラーメンがいちばん難しい」と思っている小松さんだから。

「ラーメン屋になったのはラーメンが大好きだったから。食べ歩きもたくさんやって、これくらい俺にもできるとラーメンをなめていました。ところが、やってみるとこんなに難しい食べ物はない。俺、本気でそう思うよ」

と苦笑する小松さん。商品として成立するおいしいラーメンとなれば、そう簡単にはいかない。手を抜けば抜いただけ、力を入れれば入れただけ、必ず味となって現れる。

資金繰りができずガスを止められたことも

だから、小松さんは豚骨血抜き下処理など決して人任せにしない。ガスの加減も何時間も付きっきりで、スープ釜に話し掛けるように火力を調整する。すべてはお客さまに「おいしい」と心の底から思ってもらえるラーメンにしたいから。そして、スープの出来が悪ければ、彼もまた店を開けない。

「いくら素人から始めたと言っても、看板あげてるプロなんだし、出来が悪いで店を開けないなんて最低だと思うんです。でも、納得いかないものを出すわけにはいかない。来てまずかったら、そのお客さん、2度と来ないでしょ。真剣勝負なんです。プロとして最低だけど俺はまだ小僧なんだし、できんときは『できん、すんません』と今のうちに本物に近付いていかなきゃと思うんです」

開店して間もない頃、月の半分も店を開けなかったことがある。開けるとたちまち「おいしい」、「おいしいらしい」とお客さんがいっぱいに入ってしまうのである。

店を休むつもりで開けないのではないから、もちろんそんな日も仕込みをする。強い火力で長時間が身上のトンコツスープ、ガス代だってバカにならない。わずか16席の店で出すスープにも、月30万以上のガス代を払っている。

開店時にさかのぼると、資金繰りがうまく回らずガスを止められ、生命線が断たれたこともあったという。妻、枝梨香さんが方々駆けずり回ってつくってくれた150万円の現金に涙したことが昨日のように思い出される。

厨房でスープを取りながら死にたい

だが、高校生でフランス料理店に押し掛け就職し、居酒屋時代は半年で店長に駆け上がって880席ある店を仕切っていた彼のことである。いつまでもくすぶるはずがない。

専門書のない閉鎖的なラーメン業界(本人曰く)で、彗星のごとく頭角を現し、『ラーメン職人王』を獲得。信じられないような喜びを噛み締めた。

しかし、それに甘んじることなく今日も自らスープをとる。TVの栄光もうれしいが、カウンター越しにラーメンをすするお客さんの顔に、今日のラーメンの審判を仰ぐ小松さん。

「おいしかったと満足気に笑ってくれたら、最高でしょ。俺、ずっとラーメンやっていきたい。死ぬ時はスープとりながら、厨房の中で死ねたらいいよね」

と熱いものが込み上げる。

20代半ば、小松さんは半年かけてフランスで食べ歩き生活をしたことがある。パリで知り合った、とある日本人シェフが「カウンター越しの商売が一番いいよ」と、洋食からうどん屋さんに転向した。最近になって、その言葉に深い共感を覚えるマルバラーメン店主である。



マルバラーメン
住所:浦安市猫実3-28-28
TEL:047-382-8853
営業時間:11:00~15:00、18:00~翌2:00 (スープ切れで終了)
18:00~翌2:00(土日)
定休日:不定休

小松 征司さん

マルバラーメン
小松 征司さん
KOMATSU SEIJI

昭和44年9月25日、山梨県生まれ。3歳から千葉に住む。料理に目覚めたのは小学1年生の頃。6年になると「将来はコックになる」と決意していた。高校を途中で辞め都内某有名レストランにフレンチの修行に入り、以後フランス料理、イタリア料理のシェフを経て大手の居酒屋に勤める。ラーメン屋として独立したのは28歳で、思いっきりなめてかかっていたというのが本人談。