ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.26 東池袋 大勝軒

大勝軒の山さん」は、数多くのラーメンファンとラーメン職人が崇める存在。テレビや雑誌などのマスコミに紹介される機会も多く、ラーメンブームが始まる前から、順番を待つ人が大挙する「元祖行列のできる店」を築き上げた人物である。

そして、もう1つの元祖は「つけ麺」を考案したこと。丼に山と盛られた麺をたいらげた後、山岸さんの店でしばし談話の時をいただいた。

ラーメン屋の見習いに入ったのは17歳を目前にした春だった。兄貴と慕う坂口正安さんに「店を手伝わないか」と誘われ『栄楽』で修行後、中野の『大勝軒』を手伝うこと7年。そして現在地・東池袋に店を構えた。

「人通りが少なかったから、もって半年と囁かれました。いつだったか区画整理で、1丁目81番地から4丁目28番地に変わったんです。4の28、私の誕生日と同じ並び、これはきっと神様がここで頑張れとおっしゃっているんだと思いました。今でこそお客さんが並んでくださるけど、最初は大変だったね。酢豚やカツ丼などご飯物も置いて、出前もやっていたんです」

と山岸さん。店の営業を終え片付け後ようやく昼食。時計は既に午後4時半を回っている。

店に立てる最後の日までラーメンを作り続ける

職人歴50年、御年67歳にして、朝は4時からチャーシューづくり、通学する子どもたちの声が聞こえる頃に製麺を始める。毎日毎日変わらぬ朝陽がすこやかに昇り、今日の営業を応援してくれている。

若い頃に覚えた製麺技術。改良を重ね、大勝軒スープに一番合う麺を創り出した。山岸さんが目指したのは「モチッとした感じでツルッとしたやわらかさ」のある中太麺。撹拌した粉に3~4個の玉子を割り入れ圧延は1回。胃にやさしい軟らか打ち麺が、甘辛い醤油味のスープに存在感を主張する。

山岸さんのラーメンつけ麺の元祖ともいうべき特製もりそばとボリューム満点の中華そば)を愛好する人は数多いが、店を継いでここをやりたいという人には未だ巡り合わない。

「女房と俺と妹の3人でやってきたから、弟子をとらなかったんです。それでもけっこう繁盛するようになって、雑誌に“驚異の15回転”と書いてもらったこともありますよ。人をおくようになったのは女房が亡くなって再起を志した頃からです」

そして現在も、数人の弟子が学んでいる。「ウチは学校みたいなもんだから」、山岸さんは言う。

「この店も借り物で、自分の命も借り物。せっかく貸してくださるのだから、精一杯お客さんのためにおいしいものをつくって喜んでもらいたい。子供もいないし、自分が死んだらこの店は暖簾を降ろすでしょう。でも、どこかに自分の味が残ればいいと思う。覚えようという人に未来を托し、大勝軒のすべてを教えています」

習いに来る人も縁なら、ここで40年やってきたことも、食べに通ってくださる人たちも、すべてが縁と大切にする。

足が痛い、膝が痛い、指が曲がったままで感触がない。1日4時間、その状態で麺あげをするのは容易ではない。だから、1日の仕事を終えたとき無類の幸せを感じる。

「長くやってきたことを誉められることがありますが、店の看板をがむしゃらに守ってきたに過ぎないんです。お誉めの言葉は素直に厳粛に受け留め、店に立てる最後の日まで自分のラーメンをつくり続けます」

そして、同業の人たちに

「皆さんも身体に留意され、立派にラーメン人生を築いていってください。お互いに頑張りましょう」

との言葉をいただいた。


*現在閉店