ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.37 麺の坊 砦

かれこれ15年ほど昔のこと。富山から福岡にラーメン行脚に訪れた1人の浪人生がいた。幾杯も食べた中から1杯のラーメンに感動した若者は、まるで吸い寄せられるかのようにその店に弟子入りする。それが『麺の坊 砦』大将・中坪正勝さんと『博多 一風堂河原成美の出会いのひとコマである。

「ガイドブック片手に、日に8軒のペースでラーメン屋約35~36軒食べ歩いた中、一風堂とんこつラーメンに完全に惹き付けられた」
と中坪さん。

一風堂で働かせてくださいと頼み込んだとき、成美さんから『ラーメンを 覚えようと思うんやったら3年間は、しっかり頑張れよ』と言われたんです。1人旅の荷物だけで、その当日から店の2階に住み込み生活が始まりました。自分 は大学を1浪しているから、3年後に店を持てば帳尻が合う。『3年たったら店を出す』と心に決め、みなさんと肩を並べようと安直に考えました」

と中坪さん。元より親思い、家族思いの彼、郷里の富山に店を持ちたい一心で、ラーメン屋の見習い生活が始まった。

ただ若かった。ラーメンが好きだった。ラーメン屋の仕事を完璧に覚えたいと思った。だから、夢中で働いた。気がつくと3年、初めて帰郷したのは友人の結婚式。その頃までは独立を夢見て、もらった給料の中からコツコツと寸胴鍋など道具類を買い揃えていた。

「独立の意思を成美さんに初めて伝えたのは、確か24歳の頃です。店を持ちたいと自分の夢を話したら、新横浜ラーメン博物館の話が浮上。視察で新横浜に着いて行き、94年3月には、ラー博に店長として赴任することになりました」

富山出身の若者には福岡でさえ都会に見えたのに、東京のような大都会(横浜も東京だと思っていた)で、と一瞬は不安がよぎったものの、彼もまた河 原の記述によく登場する創世記のラー博で、昼夜を忘れてがむしゃらに働いた。彼は「ラー博で3年間しっかりやって、28歳になったら独立しよう」と考え た。3年後、師匠は「まだ早い。お前にはやることがあるやろう」と認めてくれない。

一風堂のラーメンを砦・中坪の味に

そして「店をラー博で1番の繁盛店にするのが自分の役目」と、自身に次なる目標を課した。31歳、いつ切り出そうかと考えていた矢先「中坪、新横浜に工場 を造るから頼むぞ」と師匠。そこからさらに1年。晴れて独立が認められた時、彼は当初描いた年齢に10年を積み上げ、32歳になっていた。

「学ぶことがいっぱいありました。自分のなすべき役割を、成美さんは段階を追って用意してくれていたような気がします」

一風堂での13年間を振り返る。店はまだ2~3軒。「恒さん」「卓さん」(共に現在は、力の源カンパニーの管理職)が身近な先輩だった頃から、彼は「成美さん」の1番近くで、門前の小僧のように仕事も社会人としての心得もすべて吸収した。

2001年10月11日、その日は彼にとっての第2の誕生日。『麺の坊 砦』が渋谷にオープンした日である。1年がたち、2年がたち、常連のお客さまも増えてきた。

「在職中あんなに厳しいことばかり言っていたのに一風堂のスタッフはもちろん、自分が辞めた後に入ったアルバイトの子まで店に食べに来てくれるのが嬉しい」

河原成美の秘蔵っ子が出した店」と、同業者やマスコミ関係の注目を集めた。しかし、彼の態度は店主となってからも変わらない。「おいしいラーメンをつくって、お客さまに喜んで食べてもらいたい」そのスタンスで、寸胴鍋に今日もとんこつスープを取る。一風堂で覚えたとんこつラーメンを、砦・中坪正勝ラーメンに進化させ、歯切れのいい清々しいラーメンに盛り付けられる。

実直、誠実、生真面目、そんな形容詞ばかり浮かんでくる店主・中坪正勝さん。35歳、自営業3年目を迎え、とんこつラーメンが年々旨さを増している。



麺の坊 砦
住所:東京都渋谷区神泉町20-23
TEL:03-3780-4450
定休日:検討中
営業時間:11:00~とりあえず24:00(スープ終了まで)

中坪 正勝さん

麺の坊 砦
大将
中坪 正勝さん
NAKATSUBO MASAKATSU

1968年7月25日、富山県生まれ。子供の頃から母親の手伝いをよくする心やさしい子供だった。19歳で『博多一風堂』に就職し、大名本店~大牟田インター店~新横浜ラーメン博物館店に勤務。2000年12月、延べ13年間の一風堂生活を卒業。2001年10月 11日『麺の坊 砦』をオープン。「富山に出店するのは40~50代くらいで……」と考えている。