ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.59 博多 一風堂 店主 河原成美 さん

「全国にはおいしいラーメンがいっぱいある。全国の読者にがんばっているラーメン職人をたくさん紹介して、その人たちのつくるラーメンを食べに行ってもらえたらうれしい」と願う発行人の意志で始めた『ラーメン東へ西へ』のコーナー。記念号は力の源通信発行人であり、一風堂五行を展開する河原成美の登場です。 

26歳の終わりに人生の再起をかけてレストランバー『After The Rain』を始めた河原は、33歳までにもう1軒の店を出すことを考えていた。そして、ラーメン屋になることを決意。

「女性1人でも行けるようなラーメン屋。京都の路地裏にあるお蕎麦屋さんのような店、名前は『一風堂』にしよう」

と考えた。

博多 一風堂』の創業は、現在の『大名本店』があるすぐ近くから始まった。1985年10月16日のことである。

「10人のうち7~8人には満足してもらえるラーメンにしよう」

と試行錯誤を重ねた。とんこつラーメンの本場で、醤油ラーメン味噌ラーメンも置いた。河原は「カッコいいラーメン屋のおやじ」を意識しながら、いつもお客さまを喜ばせることを考えていた。

そんな河原と『一風堂』に転機は訪れた。『新横浜ラーメン博物館』への出店である。94年3月のオープンから2001年6月に退店するまで、『博多 一風堂』のとんこつラーメンは多くの人たちに食された。同時に『一風堂』の名は全国区となり、地元・福岡や東京への出店も相次いだ。

一風堂の河原さん」が、「ラーメン職人 河原さん」として認められるようになったのは、98年から3年連続してTV番組の『ラーメン職人チャンピオン』を獲得した頃からだ。

「ありがとうの実感をつかんだのも、ラーメン屋が自分の天職だと思えるようになったのも、この選手権を経験したおかげです」

たくさんの期待と応援が河原にも『一風堂』にも寄せられるようになった。

そうした中、新しい表現を求めて河原は、焦がし味噌、焦がし醤油、しお、つけ麺を出す『中華麺酒家 五行』を地元・福岡にオープンさせた。今日ではラーメン・ダイニングの形態に進化した『五行』を、東京・京都あわせて4軒展開している。

『ippudo』を世界へ

一風堂』『五行』以外にも、河原はいくつものラーメン店をプロデユースしてきた。『琉球新麺 通堂』『小樽運河食堂ラーメン工房』『名古屋驛麺通り』‥‥、繁盛店もあれば残念な結果に終わった店もある。しかし、河原はあきらめない。新たなラーメンを創作し、名前を付け、イベントを提案し、販売促進にも協力する。

日清食品の創業者である安藤百福氏(故人)に直談判し、『麺翁 百福亭』を大阪池田市に開店したのは03年11月のこと。安藤氏に

「自分の後に続くラーメン屋のみんなのために、一所懸命やれば夢は叶うということを伝えたい。道をつくりたいんです」

と本気をぶつけた。安藤氏は「やるなら中途半端はいかん。精一杯がんばりなさい」と言って河原の思いを受け入れてくれた。

「ガンコ一徹、でもカッコいいラーメン屋のおやじ」に憧れた河原は、『一風堂』をオープンした時期から20数年、ラーメンをキーワードに様々なことに挑戦してきた。

ある時期から1軒の店にじっと居ることはなくなったが、ラーメンを好きな人たちと、ラーメンに関わる仕事をする人たちのために、たくさんの夢と希望を生み出す存在となっていった。人の「気」を集め、新たな道を創造する。

店は『一風堂』『五行』 共に、国内にあと20軒ずつくらい出したいと考えている。そして、年内?来年にはニューヨーク・イーストビレッジへの出店、世界に『ippudo』を広め ていく第1歩を踏み出そうとしている。箸の文化、タブー視されてきた「すする感覚」を、ラーメンヌードルと共に伝えていく。

「くちびる快感、のどごし爽快感を世界の人に感じてほしい」

と願う。情熱の火柱を立てながら、ラーメン職人・河原成美は行く。「変わらないために、変わり続けること」それを己の使命と感じながら‥‥。

河原 成美さん

博多 一風堂
店主
河原 成美さん
KAWAHARA SHIGEMI