ラーメン職人の熱いストーリー ラーメン 東へ西へ

ラーメン東へ西へ No.74 のぼる屋 道岡 ツナさん

1937年に久留米で誕生した豚骨ラーメンは瞬く間に九州各地に広がった。その中で唯一、久留米ラーメンの影響を受けなかったとされるのが、九州の最南端、鹿児島だ。この地で最初にラーメンを作り始めたのが「のぼる屋」である。故・道岡ツナさんが店を構えたのは戦後間もない昭和22年。九州で馴染みのある白濁スープの豚骨ラーメンでもなければ、東京で親しまれていた中華そばでもない個性的な一杯だった。道岡さんに替わって「のぼる屋」の味を守る徳重和子さんに話を聞く。

生きるために作ったラーメン

上京した青年が帰郷した折に、実家よりも先にトランクケースを抱えてやって来る。のぼる屋はそんな店だ。
道岡さんが生まれて初めてラーメンの存在を知ったのは、横浜の病院だった。看護婦だった道岡さんは、中国人の患者から看護のお礼に中華そばの作り方を教わった。その時は中華そばの店を持とうとは露ほどにも思っていなかったという。
それから1年後、故郷に戻った道岡さんを待っていたのは悲惨な戦争の傷跡だった。鉄筋コンクリートで建てられていた建物を2つだけ残し、市街地から港にかけて、辺り一面が焼け野原になっていた。
「明日、食べていくために何ができるか」
その答が中華そばだった。港のほど近くに土地を探して店を構えた。教わった通りに中華そばを試作し、自分自身が美味しいと自信を持てる味になるように工夫を凝らした。できあがったのが、豚骨と鶏ガラ、魚介ダシでスープをとった一杯だ。毎日食べても飽きないよう、油分を徹底的に取り除き、さっぱりと仕上げた。かん水を使わない白い麺はうどんを思わせる。評判を聞きつけたお客が、連日押し寄せた。店にはいつも幸せそうな笑顔が溢れていた。

今もこの先もラーメンだけを作る

木製の戸を開くと、足下に土間が広がる。席に腰かけると、味わい深い木製の戸棚や急な勾配の階段、そして、使い込まれた鉄釜が目に入る。厨房には真っ白い割烹着に身を包んだ年配のご婦人が6人。その内の1人、徳重さんはお客が店に入ると「いらっしゃい、ゆっくりしていかんね」「今日はいつもよりも遅かねぇ。お腹が空いたやろ」と声を掛ける。店にはまるで祖父母の家を訪れたかのような、温かく、懐かしい空気が流れている。
徳重さんがのぼる屋で働き始めて30年が経つ。徳重さんは「ばあちゃんの味を守ることが私の役目」だと語る。のぼる屋のメニューはラーメンのみ。お客はこの味を求めて暖簾をくぐる。徳重さんはただひたすらに、ラーメンだけを作り続けてきた。そしてこの先も変わることはない。
「ばあちゃんはラーメン一本で私たちを守り、育ててくれました。メニューはたったひとつですが、一言では言い尽くせない思いが詰まっています」

この場所でしか食べられないラーメン

鹿児島きっての有名店である。フードテーマパークへの出店、大手食品メーカーからインスタントラーメン開発の要請など、これまで全国各地からさまざまな声が掛かった。だが、ただの一度も依頼に応えたことはない。その理由を徳重さんは「この場所、この空間でないと同じ味にはならないから」と説明する。のぼる屋で働いていた従業員が、同じ材料、作業工程でラーメンを作ろうとしたが、この店で味わう一杯とはまるで印象が異なったという。「この店に足を運び、ずっと変わらない景色を眺めながら食べる。空間も含めて味です」

変えないという選択

今では鹿児島市内でも塩や醤油スープ、つけ麺など様々なラーメンを食べることができる。時代の流れと共に周りの状況は目まぐるしく変わっていった。だが、のぼる屋だけは創業当時のままだ。それは調理法、使う食材にも当てはまる。「長年やっていれば、もっと早く、もっと美味しくできるやり方が見つかることもありますよ。葛藤はありますが、最終的に変えません。変えることが必ずしも正しいとは限らない。ばあちゃんの後ろ姿が、そのことを教えてくれました」と徳重さんはにっこりと微笑む。
のぼる屋はそういう店なのだ。

(取材・撮影・執筆・編集/力の源通信編集部)

のぼる屋
住所:鹿児島県鹿児島市堀江町2-15
TEL:099-226-6695
定休日:日曜、不定休
営業:11:00〜19:00


のぼる屋 道岡 ツナさん


のぼる屋
道岡 ツナさん
(みちおか つな)

「のぼる屋」創業者。明治44年生まれ。享年72才。鹿児島ラーメンの母として親しまれ、地元のお客だけでなく、数々の芸能人、ミュージシャン、スポーツ選手からも慕われていた。のぼる屋という屋号はご主人・のぼるさんに由来する。女性だけで切り盛りする営業スタイルは存命中から変わらない。